「ふるさと」を取り戻す飯舘村の闘い

筆者
東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所事故から15年。これまで記者・研究者として福島県を中心に東北の被災地に通い、2024年10月からは地域おこし協力隊員として同県飯舘村の農業法人に勤務してきた。しかし、その法人は今月末に解散し、筆者も村を離れることにした。その反省も込めて被災地の現状と課題を改めて考えたい。
お金では償えない「喪失」
11年3月の災害発生時、筆者は農林水産業を担当する新聞記者だった。想像を絶する被害に驚き、1次産業が盛んな東北地方の状況を案じたが、原発事故による農産物の出荷停止など政府対応の取材に追われ、現地へ出向く機会は限られた。それをもどかしく感じ、翌年に新聞社を早期退職して株式会社農林中金総合研究所に特任研究員の職を得た。
転職後、当初2年間は宮城県の津波被災地を回ったが、志願して福島へ軸足を移した。記者として1985年春から4年間勤務した初任地だったこともある。被災3県(岩手・宮城・福島)の中でも福島は原発事故の影響が大きく、津波被害がなかった内陸部も長期の住民避難や営農休止で深い傷を負った。もちろん岩手・宮城にも放射能汚染や風評被害は及び、津波による住民避難を契機に人口が激減した被災地は多い。だが、福島の深刻さは突出していると思う。
調査に通う中で、特に印象深かったのが飯舘村だった。阿武隈山地の北部に位置する中山間地域で「までいライフ」という独自の地域づくりに取り組んできた。「までい」は地元の言葉で「心を込めた、丁寧な」を意味する。公共事業や企業誘致、リゾート開発など他力本願の発展ではなく、豊かな自然とコミュニティー、伝統的な暮らしを生かして真の幸福を追求する、スローライフの理念だ。
そんな自立の気風があるからだろう。飯舘には自分の頭で考え、自分の言葉で語る人が多い。原発事故で厳しい境遇に置かれても、ただ嘆き、東電や国に償いを求めるのではなく、暮らしと生業(なりわい)、コミュニティーをどうやって取り戻すかを主体的に考える人が大勢いる。
断っておくが、筆者は国や東電の責任の取り方が十分だとは思わない。だから、南相馬市小高区の住民が起こした2件の損害賠償請求訴訟で原告団の要請に応じて意見陳述書を提出し、うち1件は証言台にも立った。そこで主張したのは、被災者が負った傷は単なる経済的損失や精神的苦痛だけでなく、人々が根を下ろして生きる場、つまり「ふるさと」の喪失だということだ。
お金で「損失」は償えても「喪失」は償えない。どれほど多額の賠償がなされても、潤沢な復興予算が注ぎ込まれても、それだけで失われたコミュニティーは戻らない。金銭で償えないものを「賠償」できるのか–裁判に協力を頼まれた時、その疑問を弁護士にぶつけた。正確な表現は忘れたが、こんな答えが返ってきた。「お金に換えられないものが奪われたからこそ、そのことを判決という形で残したい。そうしないと、また同じ過ちが繰り返される」。そう言われて引き受ける決心がついた。
つながりを取り戻す試み
飯舘では、その「お金に換えられないもの」を取り戻そうとする人々と出会った。

仮設住宅で手芸サークルを立ち上げた佐野ハツノさん =福島市の交流会場で2014年、筆者撮影(以下同)
最初に知り合ったのは佐野ハツノさんという女性だ。当時は福島市内の仮設住宅に住み、生きる希望と張り合いをなくして疲弊していく仲間を元気づけようと、手芸サークルを主宰していた。支援物資として届く衣類をおしゃれな作業着やポーチなどの小物に仕立て直し、首都圏のデパートで展示即売会を開いた。泣き言や恨み言は一切言わず、いつも明るく元気な人だったが、避難中にがんを患い、飯舘への帰還を果たした17年の夏に亡くなった。本当は笑顔の裏に深い悲しみを隠していたことを、彼女と長い交流のあるジャーナリストの著書で後から知った。
関根・松塚という行政区の区長をしていた和牛繁殖農家の山田猛史さんも繰り返し訪ねた。彼は原発事故の影響で米を作る農家がいなくなる中、水田で牛の放牧を始めた。農地の荒廃を防ぎ、将来の営農再開に備えるためだった。

農地を守るため牛の水田放牧に取り組んだ 山田猛史さん=飯舘村内で2018年
その奮闘に応え、京都へ避難していた三男の豊さんが戻ってきた。現在は豊さんが代表を務める「株式会社ゆーとぴあ」が繁殖から肥育、食肉加工・販売までの一貫経営に取り組んでいる。目標は、かつてのブランド「飯舘牛」の復活だ。放牧も別の場所で続けているが、地区の田んぼでは現在、ホールクロップサイレージ(発酵粗飼料)用の稲など主に飼料用作物が生産されている。猛史さんは今も現場に出るが「おれはもう息子の使用人だ」と笑う。
他にも熱い思いと行動力を持った人が大勢いる。帰還住民だけでなく移住者も多い。震災後の転入者は2月1日時点で283人に達した。脱サラして農業を始めた人、飲食店やキャンドルアートなどの工房を開いた人、村民の健康を支える医師や看護師など職種も幅広い。被災地にこそ自分の可能性や役割を見出した人たちだ。進学や就職で村を離れた人が、災害をきっかけに戻ってきて老いた父母らを支えているケースもある。災害はさまざまな離別や分断を生むが、災害が取り持つ縁、取り戻す縁というものもあるのだ。
人口減・高齢化という厳しい現実

地域ぐるみでエゴマの栽培を始めた長正増夫さん =飯舘村内で2020年
筆者は地域おこし協力隊の「企業雇用型」という枠に属し「一般社団法人いいたて結い農園」に雇われている。大久保・外内(よそうち)行政区の住民が6年前、地域ぐるみで設立した法人だ。主な作物はエゴマで、搾油も行っている。代表の長正増夫さんは役場で副村長まで務めた経歴があり、飯舘牛のブランド化を推進した立役者でもある。地元では行政区長として強いリーダーシップを発揮してきた。
法人設立の目的は農を通じたコミュニティーの維持だ。作付けや収穫などの時は、まだ帰還していない住民も駆けつけ、近況報告や昔話に花を咲かせながら一緒に汗を流す。筆者も収穫作業やイベント出店を手伝い、長正さんの誘いで移住した。
法人が解散することになったのは、メンバーの高齢化が進んで労働力の確保が難しくなり、赤字脱却の見通しも立たないからだ。残念でならないが、販路拡大という役目を果たせなかった筆者にも責任がある。コミュニティーを維持するための農の営みも、採算性や後継者を確保できなければ持続できない。被災地に限らない、普遍的な課題だ。
山田豊さんのような若手や多彩な移住者の活躍を見れば、未来への希望もある。ただ、村内に居住する人は移住者を加えても1500人程度にとどまり、被災前の人口6000人超を回復する見込みはない。高齢化率(65歳以上の割合)は60%を超え、配偶者に先立たれるなどして一人暮らしになる高齢者も多い。公的な介護基盤の強化に加え、地域での共助の維持がネックだ。
「いつまでも『被災者』ではいられない」「もう『復興』という言葉は使わなくていい」という人も被災地にはいる。筆者も今さら「復興政策」を提言しようとは思わない。ただ、忘れてほしくないことが二つある。一つは災害、特に原発事故という人災が地域に何をもたらしたかという教訓であり、もう一つは被災地が陥った人口減少と高齢化、地域産業の衰退という苦境は日本全体の課題でもあるということだ。
筆者は北海道の実家に戻り、衰えの目立つ93歳の母を支えることにした。今後は自分自身の「ふるさと」と向き合うことになるが、飯舘とも終生つながり続けたいと考えている。
(飯舘村地域おこし協力隊/農中総研・客員研究員)
日本農民新聞 2026年3月15日号掲載
ゆきとも わたる 1985年㈱毎日新聞社入社。福島支局、東京本社経済部、政治部、地方部などを経て経済部編集委員(農林水産業担当)を最後に退職。2012~22年㈱農林中金総合研究所特任研究員。24年10月~26年3月飯舘村地域おこし協力隊員(〔一社〕いいたて結い農園勤務)。北海道函館市出身、65歳。


