今月8日、福島県二本松市の東和地区に「里山文化あぶくま研究所」が設立された。研究所といっても学術研究が目的ではない。里山の生活文化を継承し、福島原発事故で傷付いた農と地域社会の再生を目指す取り組みだ。
設立の会には多彩な顔ぶれが集まった。地元農家や研究者、学生、ジャーナリストら数十人が地域の現状と未来を熱っぽく語り合った。
しかし、真の主役は2年前に63歳で亡くなった新潟大の野中昌法教授だった。野中さんは原発事故後の福島へ通い続け、有機農業の土づくりによる放射能汚染の克服に力を尽くした。その成果は著書「農と言える日本人」に詳しい。
事故直後は被災地を単なる「事例」と見て、一方的な知見を押し付ける学者も少なくなかった。しかし、野中さんは徹底して地域に根を下ろし、農家と一緒に泥にまみれながら放射性物質と闘った。「あぶくま研究所」が置かれた場所も野中さんが活動拠点とするため買い取った民家で、現在は「野中山荘」と呼ばれている。
野中さんは栃木県佐野市の出身。足尾鉱毒事件で農民救済に奔走した同郷の田中正造を深く尊敬していたという。設立の会の会場にも、田中の言葉が掲げられていた。
「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
設立の会の翌朝、泊まり込みの参加者は地元の有機農家、菅野正寿さんの案内で近くの史跡を巡り歩いた。特に印象深かったのは、天明の飢饉の惨状を記した石碑だ。「竹に花咲くは凶作のきざし」で始まる平易な碑文は、多くの餓死者を出した教訓を伝えるため村の名主が刻んだという。明治初期の廃仏毀釈運動の影響で土中に埋められたが、数十年後に偶然掘り出された。土に生き、土に倒れた人々の叫びが届いたのか。
飢饉の直接の原因は冷害だが、諸藩が借金返済のため備蓄米を売り払ったことが被害を拡大させたという説もある。利益優先で安全対策を怠った原発の事故と同じ「人災」だったのかも知れない。
真の文明を築くには、誰かが教訓を語り継がなければいけない。野中さんの遺志を継ぐ「あぶくま研究所」が、その役割を担ってくれるだろう。
(農中総研・特任研究員)
日本農民新聞 2019年6月25日号掲載