3年前、アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲さんの記録映画「医師 中村哲の仕事・働くということ」を先日見た。中村さんについて一応は知っているつもりだったが、思っていた以上に偉大な人だったことがわかり、深く感銘を受けた。
中村さんは80年代からパキスタンで医療に携わり、旧ソ連の侵攻で荒廃したアフガニスタンにも診療所を開いた。戦乱と干ばつで農地はひび割れ、雑草も生えない状態だった。栄養と水の不足で単なる下痢でも命を落とす子どもたちに、彼は「100人の医者より1本の用水路だ」と立ち上がった。
畑違いの土木技術を学び、自ら図面を引いた。「農業をやり、自分たちの手で国を立ち直らせたい」と訴える現地の人々とともに重機を操作し、重い石をかついだ。故郷の福岡県に江戸時代から伝わる取水堰の技術が役に立ったという。
2001年に始まった米国のアフガニスタン侵攻で米軍ヘリに銃撃されるなど、多くの苦難を乗り越えて03年から7年間に作った用水路の総延長は25kmに及び、3000haの農地を潤した。救われた人は65万人とされる。
昨年、政権を再び掌握したイスラム主義勢力タリバンは今年10月、ジャララバードの広場に中村さんの遺影を掲げた。偶像崇拝を禁じるイスラムの教義に照らせば異例のことだ。彼の遺志を継ぎ、農業振興に力を注ぐ人々も大勢いる。
彼の営みは真の国際貢献とは何か、安全保障とは何かを教えてくれた。紛争を力で押さえ込んでも、飢餓や貧困を放置したままでは暴力の根を断てない。中村さんは01年10月に衆院に参考人として出席し、自衛隊のアフガニスタン派遣を「有害無益」と言い切った。自民党議員から激しいヤジが飛んでも動じなかった。軍事ではなく、人を生かす医療や農業こそが平和をもたらすという信念があったからだろう。
中村さんは、こんな言葉も残した。「人は人のために働いて支え合い、人のために死ぬ。(中略)結局はそれ以上でもそれ以下でもない」。彼にとっては当たり前のことだったとしても、なかなかできることではない。せめて、その遺訓を胸に刻んで生きていきたいと思った。
(農中総研・客員研究員)
日本農民新聞 2022年12月25日号掲載