『日本農民新聞』は、1952年(昭和27年)の11月に、隅山四朗(初代社長)、堀井市松(2代社長)ら、農業・農民問題に関心を持つ有志によって創刊されました。戦後に断行された農地改革と諸制度制定によって切り拓かれた新しいステージで、農民の地位向上のために情報活動を通じて貢献しようという志によるものでした。
発刊に当たって新聞の題字を格調高い文字で書いて贈られたのが有馬頼寧氏(旧伯爵)でした。貴族院議員、農林大臣、産組中央会会頭、農林中央金庫理事長などを閲歴し、農村更生運動に力を注ぐなど、農民の地位向上に深い関心と情熱を持ち続けた有馬氏は、創業者たちの志を評価し暖かく支援する気持ちを示されたのでした。有馬氏はまた中央競馬会理事長も勤め、その功績は今日も「有馬記念」として広く国民に親しまれております。
有馬氏の揮毫そのままの初期の題字と現在の題字を比較すると、文字の形やバックの絵柄に歪みやかすれが見られます。長い活版印刷の時代を通じて1枚の鉛版から紙型をとり続けた結果の変化であり、まさに『日本農民新聞』の歴史が刻み込まれた題字といえます。
『日本農民新聞』の創刊された当時の事情を、後に全購連・全農の役員として大きなリーダーシップを発揮された織井斉氏が次のように証言しています(本紙2000号によせて)。
《『日本農民新聞』は、戦争直後にわれわれが全購連を再建して以来、常にわれわれの仕事の熱心な応援団として力を尽くしてくれた。あれは西沢文雄氏が東京支所長で私がその下にいた時だった。既存の新聞では資材購買事業の役に立たないので、新たな新聞を育てようということになった。隅山、堀井両氏を呼んで「どうだい」と言ったら「やりましょう」ということになった経過がある。》
新しい農協法に基づいて歩み始めていた「農協」の事業・運動の発展に軸足を置いて「創刊の志」を実現していく基本方向が固められ、その後、農林行政との連携を重視しつつ農協中央機関と県、農協段階との事業面での情報交流を図る取組みが、本紙の基軸となったのでした。
発刊に当たって、第3種郵便の認可は、農業団体の揺籃となった農業復興会議(隅山が関与していた)の機関紙から引き継がれたことから、認可日は日本農民新聞発刊より4年遡った日付になっています。
日本農民新聞社の実質的な初年度となった1953年(昭和28年)は、東日本を中心に冷害による大凶作の年でした。この時に当たって、まだ歩み始めたばかりの本紙は渾身の独自企画として「冷害凶作克服体験記録・対策方針」の大がかりな懸賞募集を実施しました。冷害凶作の克服に向けた「国の施策も技術資材の普及も、農民の冷害凶作へのなまなましい体験がその基礎になる」との認識に立って実施されたこの企画は、農林行政、各農業団体はじめNHKも含めた幅広い後援、協賛を得ました。審査委員には、有馬頼寧元農相、東畑精一氏、近藤康男氏ら5人の東大教授、汐見友之助農業改良局長はじめ農林省の関係幹部、小林繁次郎全販連理事、宮下英一郎全購連常務理事、三宅三郎農林公庫監事、窪田角一農林中金理事をはじめ各農業団体の幹部、長倉男士NHK農事課長ら30名に及ぶ責任者が名を連ねました。官・学・団体こぞって共感・支持される企画が実現したもので、創業者たちの心意気が示されるとともに、『日本農民新聞』が関係各方面の共感と支持を得て、いわば「市民権」を得た時期でもありました。
この募集には全国から3,121篇という多数の応募が寄せられ、1等農林大臣賞には岩手県岩手郡大更村の畠山金一氏、2等農林中金理事長賞・農林公庫総裁賞には長野県南安曇郡穂高村の竹川佐嗣氏と山梨県北巨摩郡熱見村の柳沢吾一氏ら各賞が選賞されました。翌29年3月に本紙上で発表され、4月26日に有楽町農協会館で授与式が催されました。時の保利茂農林大臣が、その意義を高く評価する談話を寄せています。
初期10年間の紙面は、農政の動向、農業金融、そして中央会、経済事業、共済事業など農協の運動や事業についての報道から、婦人のファッションや映画の紹介まで、さまざまな分野に若々しい関心を示した記事を掲載しています。
発刊から1年半後の1954年(昭和29年)6月には、旬刊から週刊化を実現しました。
昭和32年11月には、農協法施行10周年を記念した当社主催の大講演会を銀座交詢社ホールで開き、荷見安全中会長の挨拶と、(1)食管政策の今後と農業協同組合(小倉武一食糧庁長官)、(2)転機に立つ農業金融と組合金融(楠見義男農林中金理事長)、(3)日本農業の転換と農業協同組合(川野重任東大教授)、(4)全購連事件と購買事業の進路(三橋誠全購連会長)の4講演が行われました。講演会の構成に農林行政と農業団体の連携を通じて方向を示していく新聞事業の展開の枠組みが示されています。
そうしたなかで、「農協資材教室」「新しい経営と技術」など技術と資材の情報を伝える欄の継続掲載には地道に取り組み、保温折衷苗代の普及そして農業用ビニールへの注目など技術、資材先端情報に力を入れました。例えば1953年(昭和28年)の紙面には、早くも農業用ビニールの利用について農家からの質問があり、懇切丁寧に答えた農林技官清水茂氏(後の園芸試験場長、日本施設園芸協会会長)の解説が掲載されています。後に日本施設園芸協会に会員として加入し、同協会の広報部門に参画、また全農の全国施設園芸共進会の事務局を担うなど、当社事業の1つの柱となった施設園芸分野への着目のハシリということができます。
昭和30年代の紙面には「テレビの買い方知識」といった記事や映画「荷車の歌」の紹介など時代の雰囲気が反映されています。活発化する関連企業、アグリビジネスの理解も広がり、掲載される広告も多彩さを増してきました。この時期から、通常のブランケット版週刊紙を核としながらも、農協事業と農林行政の新しい展開に即した企画提案により、多様な手法で多様な分野への情報、PR事業の開拓が始まっています。(1)特定のテーマのTPOに即したタブロイド版、ポスター型(壁新聞)、農業グラフなど新聞のバリエーションの展開、(2)生産・生活資材の各種展示会の開催やイベント企画、(3)農林行政の推進協力のための新媒体の発行、(4)独自の出版事業など、新しい情報・広報需要をとらえた様々な挑戦を行い、当社の事業活動の原型が形づくられました。
昭和37年から国の農業祭(現在の農林水産祭)が始まり、毎年農林大臣賞等受賞者の披露と、各都道府県が自県の農業と農産物・農村文化をアピールする大パレードが東京の街に繰り広げられました。このパレードの実施事務局(日本農林漁業振興会)に当社は専門委員として参画し、パレードの実行と関連催事としての郷土芸能の催し等の立案、実行等、国民・消費者と共に農業の発展を祝う活動に役割を果たしました。
農林行政の推進面では、「米にも質の時代が来る!」との認識のもとに農業グラフ「米麦の保管」(昭和33年)の刊行、そして産米改良壁新聞の制作、昭和37年には「農産物検査読本」を発刊して食糧行政に協力、今日も「農産物検査とくほん」(全国瑞穂食糧検査協会)として発行を続けていいます。 普及事業の面でも「改良普及員読本」「農業改良普及所普及員名簿」「農業改良普及員必携」などを刊行しました。
「展示会」の手法も、昭和34年の第7回全国農協大会併設「農村を明るくする資材展」、昭和36年の第6回全国農協婦人大会併設「新しい農家の生活展」などを手がけるなかで当社の一つのスタイルとして定着しました。
農協事業の中で「生活事業」分野、女性活動の重要性に着目し、昭和34年の全国農協婦人大会特集タブロイド版を皮切りに取組みました。全国女性大会の特集タブロイド版は今日も継続していますし、生活事業分野の取組みでは「くらしと農協展」の開催や、全農の消費情報誌「むらの暮らし」→「くらしと商品」の受託制作にもつながりました。
昭和37年の本紙創刊10周年記念企画として、渡部伍良日本穀物検定協会会長(元事務次官)をホストに関連産業会の実力者が登場するリレーインタビューを掲載し、単行本「日本農業の明日をひらく」を発刊し出版事業に先鞭をつけました。
「農業基本法」を中心になって成立させ退官した小倉武一元農林事務次官のコラム掲載が始まったのは創刊10年目の1962年(昭和37年)1月16日号「常盤台随感」からです。小倉氏は2002年(平成14年)2月に世を去られる直前まで40年近く本紙の1面に多彩な文章を継続して寄せられ、「小倉さんの文章が載っている日本農民新聞」として本紙に対する読者の期待と評価が高まりました。
昭和36年の初冬に当時の隅山社長が山添利作、東畑四郎、小倉武一の3人の元農林事務次官に集まってもらって執筆を依頼し、「年の若い順から」と相談がまとまって書き始めたが、ついに2番手の寄稿は現れず、1人で書き続けることになってしまったと小倉氏は後年に回想しています。
小倉氏の寄せられた文章は「常盤台随感」「ある農政の遍歴」「緑陰閑話」「随想の農政」「緑の海外旅想」「緑の世界」など、当社から単行本として出版しました。その膨大な文章の多くは小倉氏の著作集等に採録され、戦後農政・基本法農政期の卓越した行政マン、誠実な思索者の証言として、国民的財産として後世に伝えられることとなりました。
<続く>